スタジオの空気が急に重くなった。
「女性ホルモンが入っている」なんて言われて、俺は頭が真っ白になる。
胸の奥からせり上がってくる恐怖で、手のひらが汗ばむ。
「ま、待ってください……! そんなの、聞いてない……!」
声が震える。俺はバッグを掴んで逃げ出そうとした。
けれど、JURIAがすっと立ちはだかり、柔らかい笑顔を浮かべたまま首をかしげる。
「え?女の子になりたいって、言ってましたよね?なんで止めるんですか~?」
「ち、違っ……」
「まさか……下心があって、このヨガに参加したんじゃないですよね?」
その声はいつもの穏やかな声と比べると、冷たくトゲがあった。
「もしそうなら……すぐに警察に通報しますよ?」
「……っ」
心臓が凍りついた。
通報なんてされたら、仕事も今の生活も全部なくなる。生きていけない。
リリーが俺の横に立ち、肩にそっと手を置いた。
「ねぇ……体の変化、もう始まってますよね?」
「え……」
思わず彼女の顔を見る。
リリーの瞳は真剣そのものだった。
「今やめても、もう元の男性には戻れないよ。二度と勃つことはないし……極端に小さくなっちゃうから、女の子を満足させられないよ」
囁き声が耳の奥に焼き付く。
この数日間感じていた違和感が、急に現実味を帯びて押し寄せてきた。
女性のきわどい姿を見ても“ムラムラ”しないし、勃つ事が無くなったのだ。疲れているだけだと思っていただが……。
「……そ、そんな……」
膝が笑う。腰から力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになる。
◆
「じゃあ選んでください」
JURIAが机の上に置いたシェイカーを取り上げ、もう一杯用意する。
中にはさっき飲み干したものとは少し色が違う、白濁した液体。ほんのり甘い香りが立ちのぼる。
「こっちは女性ホルモンがさらにた~っぷり入った業務用のタイプです。ちなみにさっき飲んだのは家庭用です」
彼女はにっこりと笑う。
「飲み干してくれれば、通報はしません。今までと同じように“女の子”として接します」
リリーも追い打ちをかけるように微笑んだ。
「業務用は自宅で飲んでいるものより、数倍早く効果がでるよ。明日の朝……体質が合えば今晩から体が反応するかも。だから、安心して飲んで。女の子になりたいんだよね?先生が少し勘違いしてるだけだから」
――逃げられない。
俺はシェイカーを凝視する。喉の水分がなくなり、呼吸が浅くなる。
(飲めば……もう戻れない。飲まなければ……すべてを失う……。でも、リリーさんの言う事が本当なら、今、止めても……)
「どうしますか?」
JURIAの声が優しく響く。
「女の子になるか、性犯罪者になるか……」
心臓が暴れる。耳の奥で血の音がうるさい。
俺は震える手でシェイカーを掴んだ。軽いはずの紙コップが、やけに重い。
「……うっ……」
唇をつける。甘い香りが鼻を刺す。
「……っ……ごく、ごく……!」
一気に喉へ流し込む。冷たい液体が舌を覆い、胃の奥へ沈んでいく。
◆
「あー良かった!やっぱり女の子になりたい気持ちは本当だったんですよね!疑っちゃってごめんなさい」
JURIAがやわらかく微笑む。
「これで……本当に女の子になれるんですよ。業務用のプロテインも家庭で飲めるように、後でお渡ししますね」
「……っ……」
喉を押さえ、俺は息をついた。
頭の奥で何かが弾けたように、全身が熱くなる。
胸の奥がじんわりと重くなる。
◆
あれっ?リリーさんは……。
ふと気づくと、リリーさんはスタジオの隅で誰かと電話をしていた。
低く抑えた声で誰かと言葉を交わしている。
「……はい。ええ、今からでも大丈夫ですか?――ありがとうございます」
そう言って通話を切ると、にこりと笑って俺の方を見た。
「今から大丈夫だって!」
「……え? な、なにが……?」
足がすくむ。嫌な予感が背中を走った。
リリーさんはさらりと言い放つ。
「何って、性別適合手術だよ。私の知り合いのお医者さん、モニター枠で格安にしてくれるって」
「――――っ!」
耳の奥で爆発音が響いたように、頭の中が真っ白になる。
JURIAがぱんっと手を叩いて、跳ねるように喜んだ。
「わぁ!良かったじゃないですか!これで完全に女の子になれるんですよ!楽しみですね~」
俺の視界が揺れる。
息ができない。喉が勝手に閉じて、空気が入ってこない。
(性別適合……手術……? 俺が……? そんな……)
力が抜け、足元がぐらりと崩れる。
必死に壁に手をついたけれど、胸の奥がざわざわして視界が暗く塗りつぶされていく。
もう――逃げ道なんて、どこにもなかった。
【6章へつづく…】
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