「レンさん、ちょっとお仕事の相談いいですか?」
16時頃、外注先に送る発注メールを作成していた僕に、千尋が声をかけてきた。
彼女の瞳は真剣で、いつもの柔らかい笑顔は影を潜めている。
僕はさっきのやり取りが頭をよぎり、今日はできれば千尋と関わりたくなかった。
それでも断る理由はなく、小さく頷くしかなかった。
「う、うん。どうしたの……?」
千尋は手に持っていた契約書を僕に見せ、細い指で文字をなぞりながら、眉を寄せて言う。
「この但し書きなんですけど……解釈が曖昧で、自分なりに調べたんですけど、どうしても確信が持てなくて」
僕はパソコンから椅子をずらし、書類を受け取って覗き込んだ。
視線を走らせながら説明しようとした、その瞬間――。
「あ……!」
千尋の声が小さく漏れた。
彼女の視線が僕の胸元で固まっている。
(やばい……!)
シャツの布地から透ける赤いレースのブラ。
千尋の瞳がかすかに揺れるのを、僕は確かに見てしまった。
慌てて背筋を伸ばし、書類で胸元を覆う。
体温が一気に上がり、呼吸が浅くなる。
「……やっぱり」
千尋が小さく呟いた。
その声が耳に焼き付く。
僕は唇を強く噛み、何も聞こえていないフリをして説明を続けるしかなかった。
◆
契約書の確認を終えたあとも、デスクで文字を打つ手が震えていた。
背後から千尋の視線を感じるたびに、心臓が縮み上がる。
逃げ場のないまま、椅子に沈み込む。
やがて千尋が再度、僕のデスクの横に立った。
「レンさん……今日、仕事終わりに少し付き合ってもらえませんか?買い物に行きたくて」
「え……」
思わず振り返る。
断りたい。今すぐにでも帰って、この下着を脱ぎたい。
「今日は忙しくて……また今度じゃダメかな?」
「プレゼントを買いたくて、どうしても今日じゃなきゃダメなんです。レンさんにも、どうしても付いて来てほしくて……。お願いします!」
千尋の真っ直ぐな瞳と声に圧倒されてしまった。
「……わ、わかったよ」
搾り出すように答えた自分の声は震えていた。
◆
定時を過ぎ、僕と千尋は駅前の商業ビルに向かった。
人混みの中を歩きながら、心臓はずっと落ち着かない。
何度も「やっぱり用事を思い出した」と言い訳しようか迷ったが、隣を歩く千尋の横顔を見るたび、その言葉は喉に詰まった。
エスカレーターを上り、辿り着いたのは化粧品売り場だった。
聞いたことがあるブランド名に、香水の甘い匂い。鮮やかな口紅やアイシャドウがずらりと並んでいる。
僕は思わず足を止める。
「ど、どうして……化粧品売り場に僕を……」
「ふふっ、驚きました?」
千尋は振り返り、少し照れくさそうに笑った。
「いつもお世話になってますし、レンさんに合う化粧品をプレゼントしたいなって思って」
「えっ……そ、そんな、僕が化粧品だなんて……」
慌てて首を振る。
だが千尋は首を横に振り返す。
「大丈夫です。私からの気持ちですから。……レンさんに似合うものを私に選ばせてください」
陳列棚を眺め、少し迷った後、彼女の指がショーケースから一本のリップを取り上げた。
深い赤。鮮烈な色合い。
真っ赤な口紅を、彼女は差し出してきた。
「レンさんに……これどうですか?きっと似合うと思いますよ!」
「……っ」
唇が震える。
彼女は何も言わない。でも行動がすべてを物語っている。
僕が自分から好んで女装をしていると思っている……。
とはいえ、経理の3人に弱みを握られている以上、言い訳もできない。
僕はぎこちなくそのリップを受け取った。
掌に伝わる重みが、恥辱の証のように感じられる。
「ありがとう……でも……」
声が裏返る。拒否することもできない。
「気に入ってくれると嬉しいです!今、買ってきますね」
千尋は穏やかに微笑む。その瞳には、確信と優しさが入り混じっていた。
◆
購入を済ませ、千尋が戻ってきた。
「レンさん、お待たせしました!会社には無理かもしれないですけど……お休みの日に使ってみてくださいね」
千尋は優しい笑顔で紙袋を差し出した。
「うっ……あ、ありがとう……」
(どうして……どうしてこんなことに……)
赤いブラ。真っ赤なリップ。
真実とは違う自分が、じわじわと形作られていく。
羞恥に震えながら、僕は紙袋を強く握りしめた。
そのまま足早に出口へと急ごうとしたその時だった。
◆
「あらっ、偶然ね」
振り返ると、そこに立っていたのは瑠衣と真帆。
二人とも仕事終わりらしく、私服に着替えていた。けれど、その笑みには仕事中と同じ鋭さが漂っていた。
「る、瑠衣さん……真帆ちゃん……どうしてここに……」
僕が声を詰まらせると、瑠衣はわざとらしくショーケースを見ながら言った。
「ここのリップいい色だよね。私もルイくんと同じの使ってるの。発色がすごく良くて、肌なじみもいいよね」
「ち、違っ……これは、千尋ちゃんに……」
「へぇ、そうなんだ」
真帆が横から口を挟む。唇に浮かぶ笑みは柔らかいのに、どこか鋭い。
「やっぱり千尋ちゃんのセンス、いいよね。レンくんにも似合いそうだよね」
「えっ……あ、ありがとうございます!」
千尋の頬がぱっと赤くなり、嬉しそうに笑う。
――違う、僕が望んだわけじゃないのに。
「ふふっ……」
瑠衣と真帆は目を合わせ、意味ありげに笑い合う。
僕だけが逃げ場を失い、ただ下を向く事しかできなかった。
◆
「よし、それじゃあ――」
沈黙を切り裂いたのは瑠衣の声だった。
「次はレンくんに似合う服を探さなきゃね。ねえ、千尋ちゃん。私たちも一緒に見て回っていい?」
似合う服――!?
胸の奥で警鐘が鳴る。どう考えても、また女物を着せられるに決まっている。
血の気が引き、僕は慌てて首を横に振った。
「い、いや、もう帰るところで……!」
必死に言い訳をする僕に、千尋がぱっと顔を輝かせる。
「いいじゃないですか!」
その無邪気な笑顔に、逃げ道はますます狭まっていった。
「せっかくなら、リップに合う服も見てみたいです!」
(やめてくれ……)
心の奥で叫ぶが、声にはならない。
赤いブラ、真っ赤なリップ、そして今度は服まで――。
【8章へつづく…】
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