僕は夜の散歩が趣味だ。翌日の憂慮が無い夜にはふらりと家を出て、近所を回ったり、一駅越えたところまで散歩に行ったりする。しんと静まり返った夜の空気を楽しむことが好きなのだと思う。
ただ、そんな事をしていると時折、自らの想像を超えたものと出会う事がある。今日はそんな話をするね。
その日、僕はただ夜を歩いていた。冬と春の狭間、生温い空気を掻き分けるように、電灯もない、先の見えない道を歩いていた。
目的はない、強いて言うなら歩く事自体が目的だった。
昼間からは想像できないような静寂の中で、時折自然が発する音に耳を傾ける。歩きながらどんな思考を巡らせていたかは記憶にないが、きっと愚にも付かないような事を考えていたのだと思う。僕は何故夜が好きなのかとか、何故此方の方角に来ることを選んだのだろうとか、多分そんな事を。
歩道の前に人影が見えた、
背は低めで背筋の通った、高齢の女性。
少し近づくとより鮮明に見えた。ベビーカーを押した老婆が、真っすぐに此方に向かって来ていた。もう一度言うが、今は深夜(3時頃だったと記憶している)、ベビーカー?何でこんな時間に?色々な疑問は渦巻いたが、老婆は僕に気が付くと少し驚いたように目を見張ってぺこりと会釈する。どうやらあちらも、この時間に他の者に出くわすとは思っていなかったようだ。
会釈を返す。
夜の旅人は黙して語らず、お互いすれ違おうとした刹那、僕は目を見張って声を漏らす。
『え……?』
中肉中背の老婆、年の割にぴんと背筋を伸ばして歩く彼女に驚いたわけではない。
彼女の押しているベビーカー、そこに僕の視線は注がれていた。
そのベビーカーには、何の役割もなかった
だって、中に誰も入っていなかったのだから
唖然
杖の代わりにベビーカーを押すというのであればわかる。ただ、明らかにそうではない。
彼女の歩き方は、ベビーカーを頼りにはしていないのだ。
不躾だが、初めての遭遇に僕は歩みを止めてしまった。彼女はそんな僕を見て苦笑いすると、ベビーカーの中に目線をやり「こんなに素直な反応をされたのは久しぶりです」と小さく笑って見せた。誰が素直だ、と思ったが、それよりも知りたい気持ちが勝る。
「杖代わり……ですか?」
そうでない事はわかっていた。でも、それ以外に問いかける手段が分からなかった。それ、何ですか?と聞くには、ベビーカーはあまりに色々な意味が持てる。
「こんな話、あんまり他の人にするものでもないんですけどね。」
僕は早くも、聞いたことを後悔した。
「孫がいたんです」
いた、いるの過去形。
ツウと言えばカアという、海と言えば山という、それくらい当たり前のことのように、他の人にするものでもない話というのは往々にして良い話ではない。
「孫は散歩が好きでね」
老婆は続ける。僕は神妙な顔をして聞く事しかできなかった。
「たまに散歩に連れていくのだけど、昼間に行くとあなたみたいにびっくりする人が出ちゃうから、こんな時間に。」
「あの、もう」
大丈夫です。そう言おうとした。
それを察したかのように老婆は話すのをやめた。
辛い思い出など、人に語りたくもないだろう。
申し訳ない事をした、僕が妙な反応をしなければ。
「気にしないでください、もう孫には会えませんけど、きっと元気にしていますから。」
まるで僕の心を読んだかのように一礼して、老婆は僕に背を向ける。
この日だけは、賽の河原なる場所がない事を僕は切に願った。
では、と呟いて老婆は歩き出す。
ベビーカーの音をギィ、ギィと鳴らしながら。
僕も彼女に背を向けて歩き去ろうとした――ところで、もう一度彼女の方を向く、最後に一言、謝罪を述べようとして。
「え」
無
そこには誰もいなかった。
闇、静寂。
つまりあれは――――――――
孫はもしかしたら今も、本当に元気に過ごしているのかもしれない。などと思うほどに冷静さを取り戻したのは、転んで擦りむいた膝に家で絆創膏を貼っている時だった。
縷々道 生我
2020-08-30 09:56:49 +0000 UTC縷々道 生我
2020-08-30 09:56:21 +0000 UTC縷々道 生我
2020-08-30 09:55:53 +0000 UTC隠キャ郎@Low Nerd
2020-08-29 00:58:56 +0000 UTCMock
2020-08-26 12:54:04 +0000 UTCblank
2020-08-26 09:35:48 +0000 UTC