駄菓子、と聞くとその字面から、何やら粗悪な菓子なのだろう、とか、品質的に良い物ではないのだろう、のようなイメージを持たれがちである。だが、これは僕が駄菓子を好んでいると言う事実を差し引いても、言葉の成り立ちから根本的に間違っている。
駄菓子という言葉の歴史は意外に長く、元を辿れば江戸時代に創られた言葉である。当時は、高級品であった白砂糖を用いたお菓子を『上菓子』と呼んでいた。これに対し、黒砂糖やその他の甘味を用いたお菓子は上菓子に対して『駄菓子』と呼ばれていたのである。
そう、上菓子と駄菓子の区分は材料の高級さによる違いだけでしかなく、味や手間暇等はその選考基準に一切入っていないのだ。故に、定義上では白砂糖を固めただけで何の工夫もないお菓子でも上菓子と呼ばれ、黒砂糖を複数工程掛けて作られた名品は駄菓子と呼ばれるのである。
何でいきなりこのような話を?と思うかもしれないが、世の中にはこの『上菓子』と『駄菓子』の関係性に似た話が沢山転がっているのである。
例えば勝利と敗北、敗北は別に悪い事ではない、勝負があったなら勝利と敗北は必ず生まれる。なのに、敗北する事がまるで失敗で、哀れまれるべき事のような空気がある。
例えば先発医薬品とジェネリック医薬品、ジェネリック医薬品は模造品ではない。先発品の課題を可能な限りクリアして販売されるものが多く、むしろ質的には勝っている筈である。
これを読んでいる君達も似たような事があるのではなかろうか。
失敗、不合格、落選、レギュラー落ち、人間には様々な選考制度があると聞く。君達は、それらの経験を経て自分を責めた事はないだろうか。自分に落ち度があったから、このような『悪い』結果を生んでしまったのだ……とか。
だとしたら、それは少し齟齬があるように感じる。これらの出来事は全て事象の結果以上の意味合いはない。ましてや、それを理由として君達に何かしらの落ち度があるという事の証左にはならない。
これらの不運が結果以上に君達を傷つけてしまっているのは、これらの前提に成功者、合格者、当選者、レギュラーがいて、それらと自分を比べてしまっているからのように感じる。
人と比べなければ人類は今より生きやすくなるだろうに。他者と自分を比べ安くしてしまったSNSというツールの功罪を改めて認識した僕だった。
夏休み、君はどのように過ごすのだろうか。どうか、キラキラした生活を送っている身内を見て劣等感に苛まれないようにして欲しい。人生に貴賤無し、お布団で堕落する休日もまた、等しく愛おしい休日なのだ。
……別に、自分に言い聞かせている訳ではないぞ。