1日に食べられる量が決まっているんじゃないかというくらい、食に対する気持ちが前より向かない。
一昨日まで…いや先月、先々月ほど前までは、自分の食べるものに関心があったし食事そのものをモチベーションにしていた。元より食べることが好きだ。だからこうなってしまっている自分に対して猜疑の目を向けたくなる。この食欲のなさは本心なのか?
これじゃあエネルギーを蓄えるも難しいと思い、寝るが、寝るのも下手なままだし
はやく良くならないといけないという焦りはあるのに、良くなろうと自分から行動をしないところが腹立たしい。むしろ後進しているとまで言える。前より笑えるようになったか、声が出るようになったか、毎日日々のかすかな瞬間で以前の自分と比べてみるがそれも正しい行為なのかわからない。答え合わせがストレスを貯めているかもしれない。そう思うとやるせない。
何かに縋りたくても動けない。ただ、パソコンの前に座って、文章を打てていることは進歩だと言えよう。絵を描くほどの元気は持ち合わせていないが…
明日はかなり動かないといけないと言われている。事情を知っている人しか周りにいないが…自分を大事にすることは容易に見えるが私にとっては困難だ
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空腹であれば食べる。神への愛ゆえにではなく空腹だから。
路傍に倒れふす見知らぬ人が飢えていれば、みずからがこと欠く状態であっても、その人に食べ物を与えねばならない。神の愛ゆえにではなく、その人が飢えているからである。
自分自身のように隣人を愛するとはこういうことだ。
「神ゆえに」を与え、「神ゆえに」または「神において」他者を愛するなら、自己と同じように愛してはいない。自己を愛するのは動物的な感性のはたらきによるのだから。
この動物的な感性そのものが普遍とならねばならない。そんなことは矛盾だ。奇蹟にひとしい。つまり超自然である。
矛盾、不可能、これらは超自然の兆候である。
「神ゆえに」または「神において」自己を愛するのではない。自然が魂の奥底にそなえてくれた神の一被造物としての自己への愛を理にかなうと認めるがゆえに、自己を愛するのだ。
隣人への愛も同じである。
すべての思考する存在は、神の創造行為から存在をうけとり、神への愛ゆえにその存在を放棄する能力を有するかぎりにおいて、愛されるにあたいする。自己にせよ他者にせよ、この資格においてのみ愛してよい。
[ La connaissance surnaturelle, Gallimard, 1950のマニュスクリプト版]
シモーヌ・ヴェイユ 『ヴェイユの言葉』 冨原眞弓 みすず書房 2003.11