(1)
「つかれっしたー」
最後まで残っていた部員が、そう言って部室を出ていった。
部員の向こう側の空は、すっかり真っ暗になっている。
広い部室に一人残された俺は、手元のバインダーに視線を落とした。
先日の練習試合の細かい結果・分析が書かれたものだ。相手校のものも、自分達のものも、かなり細かいデータが揃っている。
俺は顎にボールペンの端を当てながら、その分析されたデータを更に精査していく。
夏の大会の組み合わせが、先日発表された。一戦一戦を確実に勝ち上がるために、できることならなんでもしておきたかった。データを分析しているうちに、試合の映像を見返したくなった――部室にあるパソコンを起動し、のろのろと立ち上がるのを待っていると、部室の扉が開いた。
「整(せい)、やっぱまだいたのか」
「――村田」
入ってきたのは、キャッチャーの村田剛志(むらた・つよし)だった。キャッチャーらしい、大きく恵まれた体格に綺麗に刈り上げられた坊主頭。どこか熊を思わせる、動物的な顔つき。
「大丈夫かよ、もう遅いぞ」
「うん……もう少し」
剛志とは幼馴染で、長い付き合いだった。俺に野球の面白さを教えてくれたのも剛志だ。家でゲームばかりしていた俺を、地元のリトルリーグに誘ってくれた。
「これ、買ってきたから」
そう言い、剛志はコンビニのビニール袋を掲げた。中には、スポーツドリンクと、おにぎりがいくつか。
制服の剛志は俺の隣にどかっと座ると、ビニール袋からおにぎりを取り出して封を開けた。
「無理すんなよ」
「うん、……ありがとう」
俺はようやく立ち上がったパソコンの画面を覗き込み、先日の練習試合の動画ファイルを呼び出した。
カチカチとシークバーを行ったり来たりし、先日のプレイを再分析する。
「ところでさ」
作業が一段落し、俺がおにぎりを手に取ったところで、剛志が言った。
「どうだよ、穂花とは」
「あぁ、……うん、順調だよ」
穂花とは、俺が最近付き合いだした彼女の名前だ。
俺と、剛志と、穂花は同じ小学校で、仲の良いグループだった。
俺はかなり前に一度聞かされたことがある。リトルリーグの帰りだ。剛志がぽつりと言った。
「俺、穂花好きかも」
それきり、それきり何も無かった。そして俺は先日、穂花に告白された。付き合うことになって、剛志にそれを報告するときはドキドキしたけど、剛志は自分のことのように喜んでくれた。
だから俺は、剛志の分も穂花を大事にしなきゃいけないと、勝手に思っている。
「そっか。そりゃ何より――それで」
返答を聞いた剛志が、ぐい、と俺の肩を抱き寄せた。
カッターシャツ越しに、剛志の高い体温が伝わる。
「どこまで行ったんだよ」
「どこ、って」
「ばっかおまえ、わかるだろ、それくらい」
「それは、その……」
先日、親が留守のとき穂花を家に呼んだ。そして俺たちは、した。
いや、正確には、しようとした。でも、ちゃんとできなかった。
穂花が痛がったのだ。
だから最後まではできなかった。でも俺たちはお互いに気にせず、互いに体を撫であったり、キスをしたりして過ごした。
「ごめんね」と穂花は謝ってきたけど、何を謝ることがあるだろう。
だから俺は剛志に、「うーん、まあ、ぼちぼち?」とだけ答える。
「はぁっ?なんだよ、それ」
剛志は納得していない顔をしていたが、
「ま、そろそろ帰るぞ」
そう言い、俺はユニフォームから制服へと着替えた。
電車で地元の駅に向かいながら、野球部について剛志と真剣に話した。
二年のピッチャー、森野の最近の成長について、とか。
須藤監督のやり方についてなんかも話した。
駅の改札を出ると、俺たちの家は反対方向だ。俺は剛志と別れて、自宅へ向かう。
駅から家までは、飲み屋のある通りを抜ける必要がある。
もう時間も遅いので、サラリーマンたちが楽しそうに会話をしながら店の中へ入っていく姿が多く見られた。
「う……」
何か声が聞こえた気がした。俺は立ち止まり、周囲を見回す。ガヤガヤと賑やかな通りの一本入ったところ、ゴミ袋やバケツ、段ボール、室外機が雑然と並んだところに、人影がある。
俺は、まるで何かに吸い寄せられるようにそちらに近寄った。
別に、ただの酔っ払いかもしれないのに。
そのとき俺は、何かただならぬ力を感じていた――のかもしれない。
「あ、……ああ」
男が、ゴミ袋によりかかるように倒れていた。黒く短い髪の毛の男。肌は日焼けしたように浅黒い。
男はスーツを着ていたが、ところどころ汚れて破れている。そこから、男の肌に傷があるのが見えた。
「だ、大丈夫ですか」
俺はどさりとエナメルバッグを放り出すと、男の元へ近寄った。
男はいやに逞しかった。ボディビルダーか何かだろうか?
男を抱き起こそうと腹に手を回すと、ぬるりとした感触。その手を見ると、べったりと赤黒い液体がついていた。
――血?
その『血』からは、不思議なにおいが薫った。
ぐわん。
頭がぼうっとする。なんだ、この、におい。
「やぁ、これは……俺もなかなか、幸運だな」
男が目の前で何か言っている。
俺はどさりとその場に膝をついた。からだからちからがぬけていく。
めのまえがぐるぐるまわって、なにもかんがえられない。
からだがあつい。
かぜでもひいたみたいだ。
「大丈夫――ほら、こっちにおいで」
おとこがいう。
なんだろう。
なんだかとても、安心する――。
血に塗れた腕を、男がぐいと引いた。
俺はそのまま、男の胸元に倒れ込む。
「あ、あぁ、ああああああっ♡」
男の胸元からは、雄の濃いにおいがした。練習後のユニフォームや部室みたいな、濃厚な臭気。
「はぁーっ♡な、なんら、これぇ…っ」
「ほら、いいにおいだろう?」
「はぁッ、はぁッ、はぁーッ♡」
俺は両手を男の逞しい胸に這わせながら、夢中になってその胸元に顔を埋め、においを嗅いでいた。
「いやぁ、馴染みもいい。これはなんとかなりそうだ」
男が呟く声は、俺の頭には入っていない。
男が俺の顎を掴んで、俺の顔をぐいと引き寄せた。
おれはそれだけで、おとこがなにをしようとしているのかりかいした。
俺は口からあさましく舌を伸ばし、男の伸ばした舌と絡めようと一生懸命になった。
男の唾液に濡れた舌が俺の舌に絡みついて――。
パンッ!
世界が弾ける音が、した。